広島地方裁判所 平成元年(ワ)190号 判決 1994年7月28日
原告
澁谷幹雄
同
澁谷茉央
同
澁谷龍太郎
右両名法定代理人親権者父
澁谷幹雄
原告ら訴訟代理人弁護士
小笠豊
溝手康史
被告
速水璟
右訴訟代理人弁護士
秋山光明
新谷昭治
大元孝次
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告澁谷幹雄に対し二八七三万八六五〇円、同澁谷茉央及び同澁谷龍太郎に対し各一四三六万九三二五円及びこれらに対する昭和六三年七月二三日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
被告は、住所地において速水医院を経営している医師であり、原告澁谷幹雄(以下「原告幹雄」という)は、同医院に入院し治療を受けた亡澁谷美恵(以下「美恵」という)の夫、原告澁谷茉央(以下「原告茉央」という)及び同澁谷龍太郎(以下「原告龍太郎」という)は、原告幹雄と美恵の子である。
2 診療経過
(一) 美恵は、昭和六三年七月二日(以下、同日について記載する場合には、時刻のみをもって表記する)、旅行先の旅館で突然「心臓の鼓動が早くなりだした」と訴えたため、救急車で速水医院に搬送され、同医院に入院し、被告による治療を受けた。
(二) 被告は、美恵の疾病を発作性心房性頻拍と診断し、点滴及び心電図検査の施行、アミサリン(抗不整脈剤)及びホリゾン(精神安定剤)の投与等の治療を行ったが、同道した原告幹雄に対しては、すぐ治癒するから心配する必要はないが、一晩入院させた方が安全である旨説明し、付添いの必要はないから帰るよう再三にわたって指示したので、原告幹雄は、美恵を残して旅館に戻った。被告は、美恵が頻拍感を訴えたため、午後一〇時三〇分ころ、ノルペース(ジソピラミド製の抗不整脈剤)の錠剤を投与した。
(三) ところが、美恵は、午後一〇時四〇分ころになって容態が悪化し、頭痛、吐気、動悸、胸痛等を訴え、看護婦の問いかけに対してうなずくのみという状態となり、午後一一時一〇分ころ、嘔吐物を誤飲して呼吸困難となっているところを看護婦によって発見された。美恵は、応急処置を施された後、午後一一時三〇分ころ、被告により、心臓マッサージ、酸素吸入、ホリゾン等の投与がなされ、一旦停止していた心臓は拍動を再開したものの、意識は回復しなかった。
(四) 美恵は、翌七月三日、被告の指示により、救急車で広島市内の医療法人あかね会土谷総合病院(以下「土谷総合病院」という)へ転院したが、同人の意識は回復することのないまま推移し、同月二三日午前一〇時ころ、容態が悪化し、同日午後一時一分死亡した。
3 美恵の死因
(一) 美恵は、嘔吐物の誤飲によって窒息し、心停止を起こし、循環が再開するまでに時間がかかり過ぎたために重度の脳障害を残し、その結果死亡したものである。
(二) 嘔吐の原因は、心室性頻拍が持続していたところにノルペースが経口投与されたため、同剤の心機能抑制作用により、あるいはアミサリンとの相乗効果によって血圧が低下したためであり、当時、ホリゾンの作用によって意識がもうろうとしていたために嘔吐物を誤飲したものと考えられる。
4 被告の責任
(一) 美恵は、速水医院において診療を受けるに当たり、被告との間で、被告が美恵に対し医学的に適切な治療行為をなし、美恵がその対価として報酬を支払う旨の診療契約を締結した。
(二) しかるに、被告は、次のとおり医師としての最善を尽くさず、右契約に基づく債務の本旨に従った履行を怠ったものである。
(1) 診断上の過誤
美恵の病名は、重篤な不整脈である心室性頻拍であったが、被告は、これを症状の軽い心房性頻拍と誤診した。
(2) 治療内容上の過誤
① 心室性頻拍に対する治療の原則は、早期に頻拍発作を停止させることにある。美恵の頻拍発作は、初期のアミサリンやホリゾンの投与によっても停止しなかったのであるから、被告は、その時点で治療方針を再考し、特効薬であるワソランを投与するか、あるいはアミサリンを限界まで追加投与したり、リドカイン等の別の抗不整脈剤を心電図監視下に静脈注射するか、あるいは電気ショックによる治療を行うかして、右発作を早期に停止させるべきであったのに、それをしなかった。
② ノルペースの経口投与は、患者の状態を観察しながら投与量を調節することができず、危険性が高いから、初めての患者に対しては通常行われず、美恵に対する治療方法としては適切でなかった。
(3) 経過観察上の過誤
頻拍発作中は、心電図モニター(アラームもセットすべきである)及び血圧モニターを継続的に装着するなど、慎重な経過観察が必要であり、特に、ノルペースを経口投与した後は、同剤の心機能抑制作用にかんがみ、血圧モニターにより十分に血圧を監視し、看護婦を側に付き添わせて嘔吐に備えるなどの措置(気道確保の措置を含む)が必要であったのに、被告は、これらの措置を採らなかった。
(三) 被告は、右のとおり、美恵の診療に当たって、診療契約上の不完全履行により、また、医師として当然要求されるべき注意義務に違反した過失により、同人を死亡させたものであるから、債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償義務を負う。
5 損害
(一) 入院雑費 二万七三〇〇円
美恵は、二一日間入院し、入院雑費として一日平均一三〇〇円を必要としたので、その合計は頭書金額となる。
(二) 葬祭費 一〇〇万円
美恵の葬祭費として、頭書金額が相当である。
(三) 逸失利益 三〇六八万円
美恵は、死亡当時満三六歳(昭和二七年二月二五日生)の主婦であり、本件医療過誤がなければその後就労可能な満六七歳までの三一年間(これに対応するホフマン係数は18.421である)稼働することが可能であったところ、昭和六一年賃金センサス第一巻第一表、産業計・企業規模計・学歴計の女子労働者の平均賃金は、年間約二三八万円(専業主婦にあっても右平均賃金相当の家事労働に寄与していることは明らかであるから、これを基準とすることとする)であるから、生活費の控除を三〇パーセントとして、ホフマン方式により逸失利益の現価を算出すると、次の計算式のとおり、頭書金額となる。
(計算式)
2,380,000×18.421×(1−0.3)≒30,680,000円
(四) 慰謝料 二〇〇〇万円
美恵の死亡による原告らの悲しみには耐え難いものがある上、当時、原告茉央は三歳、同龍太郎は二歳の幼児であり、母親を失ったことによる同人らの生育過程上の不利益は計り知れない。また、原告幹雄も妻を亡くし、家事、育児その他の相当の負担を負うこととなった。以上の事情を考慮すると、原告らの精神的苦痛を慰謝するには、頭書金額が相当である。
(五) 弁護士費用 五七七万円
本件訴訟に係る弁護士費用(着手金及び報酬)として、頭書金額が相当である。
(六) 美恵の死亡により、原告幹雄が相続分二分の一、同茉央及び同龍太郎が相続分各四分の一の割合で、美恵の権利義務を相続した。
6 よって、原告らは、被告に対し、債務不履行又は不法行為による損害賠償請求権に基づき、各自の相続分に応じ、原告幹雄につき二八七三万八六五〇円、同茉央及び同龍太郎につき各一四三六万九三二五円及びこれらに対する不法行為の日の後である昭和六三年七月二三日から各支払済みまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1のうち、被告が住所地において速水医院を経営している医師であり、美恵が同医院において入院治療を受けたことは認めるが、その余は知らない。
2 請求原因2について
(一) 同(一)のうち、美恵が速水医院へ救急車で搬送されて入院し、同医院において被告による治療を受けることになったことは認めるが、その余は知らない。
(二) 同(二)のうち、被告が美恵の疾病を発作性頻拍症と診断し、原告ら主張のとおりの治療を行ったこと、原告幹雄に対して美恵を速水医院に一晩入院させた方が安全である旨述べたこと、被告が美恵にノルペースを投与したことは認めるが、その余は否認する。
(三) 同(三)のうち、美恵が頭痛、動悸を訴えたこと、同人が嘔吐物を誤飲したこと、被告が原告ら主張のとおりの治療を行ったこと、美恵の意識が回復しなかったことは認めるが、その余は否認する。なお、被告は、急速に意識を回復させることに伴う脳障害の危険性を考慮して、治療上、早期に意識を回復させる措置を採らなかったものである。
(四) 同(四)のうち、原告ら主張の日時に、被告が美恵を救急車で土谷総合病院へ転院させたこと、美恵が死亡したことは認めるが、その余は知らない。
3 請求原因3は否認する。美恵には、不整脈の合併症である心停止あるいは突然死的な心停止が生じ、心停止に伴う嘔吐が突然発生したものと考えられる。
4 請求原因4について
(一) 同(一)は認める。
(二) 同(二)及び(三)はいずれも争う。
5 請求原因5は知らない。
三 被告の主張
1 被告は、美恵の血行動態(血圧、意識状態等)に異常がなく、心電図検査の結果も良好であり、家族と旅行中であることから、同人の疾病は、心室性頻拍ではなく、発作性心房性頻拍であると判断したものであり、被告の診断に過誤はない。また、被告は、念のため心室性頻拍にも効くアミサリンを投与している。
2 美恵に対し、抗不整脈剤としてアミサリン及びノルペースを、精神安定剤としてホリゾンを各投与したことに間違いはなく、アミサリンの量を追加しなかったことについても、夜間で初診の患者であることを考えれば、一般開業医としては不適切なものではない。
3 美穂は、午後九時四〇分には回復室に独歩で入室しており、また、午後一〇時三五分には自力で排尿に行っているのであって、このような状況の下で、被告は、看護婦に対し美恵の症状を随時観察するよう指示し、自らも急変に際して直ちに対応できるように院長室で待機していたのであるから、被告の経過観察及び速水医院での看護体制に過誤は存しない。なお、ノルペースは抗不整脈剤として一般に使用されていたものであって、投与後常時監視を必要とするような特殊な薬剤ではない。また、仮に、経過観察に過誤があったとしても、美恵の嘔吐は突然かつ一瞬のうちに生じたものと考えざるを得ず、看護婦等の付添いがあっても、誤飲による窒息は防ぎ得なかったものというべきであるから、右過誤と美恵の死亡との間に因果関係はない。
4 美恵の嘔吐の原因は原因不明の心停止に基づくものであり、被告がそれを予見しなかったことはやむを得ないものというべきである。仮に、ノルペースの投与が嘔吐の原因であるとしても、同剤による血圧低下という副作用は極めて出現可能性の低いものであり、一般開業医である被告がそれを予見すべきであったとすることはできない。
四 被告の主張に対する認否
いずれも争う。
第三 証拠
本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりである。
理由
一 請求原因1(当事者)のうち、被告が住所地において速水医院を経営している医師であり、美恵が同医院で入院治療を受けたことについては、当事者間に争いがなく、その余の事実は、証拠(甲二〇)によって認められる。
二 請求原因2のうち、美恵が速水医院へ救急車で搬送され、同医院において入院治療を受けることになったこと、被告が美恵の疾病を発作性頻拍症と診断し、点滴の施行、薬剤(アミサリン、ホリゾン)の投与、心電図検査の施行等の治療を行った上で、原告幹雄に対し、美恵を速水医院に一晩入院させた方が安全である旨述べたこと、被告が美恵にノルペースを投与したこと、美恵が頭痛、動悸を訴えたこと、同人が嘔吐物を誤飲したこと、被告が心臓マッサージ、酸素吸入、ホリゾン等の投与を行ったが、美恵の意識は回復しなかったこと、翌七月三日に被告が美恵を救急車で土谷総合病院へ転院させたこと、美恵が同月二三日午前一時一分に死亡したことの各事実については、当事者間に争いがなく、右争いのない事実に証拠(甲一ないし三、一一、乙一の1・2、二ないし四、五の1・2、六、証人西岡千壽、原告澁谷幹雄本人、被告本人(第一、二回))を総合すれば、美恵に対する診療の経過は次のとおりであったと認められる。
1 被告は、午後八時ころ、発作を起こしている患者がいるので収容してほしい旨の電話連絡を受け、午後八時三〇分ころ、救急車で速水医院に搬入された美恵(昭和二七年二月二五日生、当時三六歳)に対し、救急処置室において診察を開始した。被告は麻酔科を専門とする医師である。
2 被告は、五パーセント糖液の点滴、アミサリン及びホリゾンの投与、心電図検査、自動血圧計による血圧測定を施行した。心電図自動解析装置は、午後八時三七分時点で、心拍数毎分一五五回、R―R間隔0.385秒、P―R間隔0.000秒、QRS間隔0.134秒、軸偏位はP波がマイナス六九度、QRS波がマイナス八六度、T波がプラス八二度との測定値を示し、心室性頻拍、心室内ブロック、ST―T異常、左軸偏位、時計回転があり、異常の心電図であるとの解析結果を示し、原因疾患の検索と治療、不整脈の重症度の確認を行うよう促しており、波形又は計測値に対するコメントとしてQRS波の間隔に注意喚起していたが、心電図の波形それ自体はR―R間隔が規則正しい状態であった(なお、心電図は、心臓の活動電位の時間的変化をグラフに記録したものであり、心電図に現れる各波の名称と時間値、軸偏位の関係は別紙のとおりである。このうち、P波は心房の興奮を、QRS波は心室への興奮伝達を、STは心室内興奮の持続を、T波は心室内興奮の回復過程を、R―R間隔はリズムをそれぞれ示すものである)。自動血圧計は、午後九時五分から五分おきに午後九時四〇分までの測定値を記録しているが、それによれば、美恵の血圧は、収縮期が一三一ないし一五〇、拡張期が七三ないし八二(以下、収縮期血圧と拡張期血圧を同時に示す場合には「収縮期血圧/拡張期血圧」として、数値のみを表記する)とほぼ平常値であり、心拍数は毎分一五二回から徐々に低下し、一三二回までになっており、酸素飽和度は九六ないし九八パーセントであり、ショック、心不全等の症状はみられなかった。また、被告は、この間に問診を行ったところ、美恵の意識は清明で受け答えも十分可能な状態であり、同人が島根県浜田市から家族旅行に来ている最中であること、以前にもこのような発作を起こし、国立浜田病院で治療を受けたことがあるが、最近は発作はなかったこと等の回答を得た。そこで、被告は、美恵の意識及び血行動態が安定していること及び同人の過去の症状等から判断して、美恵の疾病は発作性頻拍であり、そのうち心房性のものである可能性が高いと考えたが、念のために心室性頻拍にも効果があるアミサリン二〇〇ミリグラムを心電図をモニターしながら静脈注射し、さらに、鎮静を図るためホリゾン五ミリグラムを注射したところ、心拍数が減少し、同人も症状が軽快し楽になった旨答えたが、なお心拍数が高かったため、経過観察のため入院を勧めた。
3 美恵は、当初入院に難色を示していたが、被告の勧めに応ずることとし、廊下を挾んで救急処置室の向かいにある回復室に看護婦の介添えを得て入室した。被告は、美恵の症状がさほど重篤なものとは思われなかったことと、原告幹雄が幼児二人を伴っていたことから、同人に対し付添いを積極的に指示することはせず、原告らは翌日迎えに来ることにして病院を退去した。また、被告は、主として美恵の安静を図るため、それ以後は心電図自動解析装置及び自動血圧計の装着を止めた。
4 午後一〇時三〇分ころ、美恵が付添いの看護婦に頻拍感を訴えたので、被告は、ノルペース二錠(一〇〇ミリグラム)を経口投与した。美恵は、午後一〇時三五分ころ、看護婦とともに歩いて排尿に行った。午後一〇時四〇分ころ、当初から続けていた五パーセント糖液の点滴を終了してKN補液(輸液維持液)五〇〇ミリリットルの追加がなされたが、その際、看護婦が美恵に具合を聞いた。同人は、意識ははっきりしており、問いかけに対してうなずいて気分不良、動悸、頭痛を訴えたものの、胸痛や嘔気を訴えることはなかった。また、その際血圧計を装着して測定したところ、血圧一二〇/七〇、心拍数毎分一二〇回との結果が得られた。
5 その後、被告は、美恵に対する看護婦の付添いを解除し、継続的な心電図・血圧のモニターも行わず、回復室の二つ隣にある院長室で健康保険の事務をしていた。ところが、午後一一時一〇分ころ、回復室から嘔吐する音が聞こえてきたので、被告は、急いで駆けつけたところ、美恵が嘔吐物を誤飲して口から泡を吹いているのを発見した。被告は、美恵が呼吸しており、心臓も拍動していることを確認した上で救命措置に取りかかった。被告は、直ちに回復室常備の吸引器を用いて嘔吐物の吸引排除を行ったが、嘔吐物は気管内に入っており窒息状態であったため、処置室常備のアンビューバッグ(用手人工呼吸器)を用いて、マスクによる人工呼吸を行った。しかし、それでも不十分であったので、気管内挿管を行うことにして、ラボナール(静脈麻酔剤)及びミオブロック(筋弛緩剤)を注入し、さらに、ラボナールを追加し、ホリゾンの投与を行った上、気管内チューブを用いて気管内挿管を行った。自動血圧計による血圧測定はできなかった。その後、帰宅していた看護婦二名が、被告からの呼出しに応じて出勤して来たので、用手マッサージを行わせるとともに、ボスミン(昇圧剤)液一ミリリットルを生理食塩水二〇ミリリットルに溶解して気管チューブ内に注入し、右チューブを用いて気道内の嘔吐物を吸引除去した後、アンビューバッグを介して酸素吸入を行ったところ、美恵の血圧は上昇し、顔色も良好となったので、ベンチレーターを用いて機械的人工呼吸にした。なお、被告は、一応救命措置が終了した後に美恵に自動血圧計を再装着して血圧の測定を行ったが、それによると、午後一一時五五分から翌日の午前〇時四〇分まで五分間隔で記録されており、第一回目が八八/四二と極端に低血圧状態を示したが、それが午前〇時三〇分まで継続し、午前〇時三五分の測定で一一二/五五まで上昇し、最終値は九六/五〇となっている。また、その後の美恵の症状は、対光反射はあり、瞳孔左右不同はなかったが、痙攣発作があったので、被告は、脳障害の可能性を考えて、グリセオール(脳保護剤)の点滴を行い、また、体温の上昇(38.6度)が認められたので、氷枕、氷のうを大量に用いて冷却を行った。
6 被告は、翌七月三日午前〇時三〇分ころ、救命措置が終了した時点で、原告らに対し、至急来院するよう連絡し、同日午前三時ころ、来院した原告幹雄ら家族に対し、美恵の病状及び経過について、①発作性頻拍症で入院していたが、嘔吐物の誤飲により窒息状態になったこと、②嘔吐の原因としては、不整脈による心拍出量の低下が考えられるが、中毒、頭部外傷、脳疾患等の可能性も否定できないこと、③容態の急変はないと考えられるが、痙攣と発熱があるので、酸素欠乏による脳障害の可能性があり、当分、麻酔剤の投与と人工呼吸の施行が必要であること、④今後の治療及び検査のため、ICU(集中治療室)の設備を持つ病院へ適当な時期に転院させる必要があること等の説明を行った。
7 美恵は、転院先の土谷総合病院において、蘇生後脳障害、誤嚥性肺炎、発作性頻拍等と診断され、治療を受けたが、意識障害、呼吸障害が改善されることはなく、体温をコントロールできない状態となり、同月二三日午後一時一分死亡した。死亡診断書上、直接死因は急性心不全とされた。なお、土谷総合病院で施行された超音波心臓検査の結果、美恵の心臓の各組織に器質的変化はなく、機能の異常もないとの診断がなされた。また、頭部CT検査の結果にも異常はなかった。
8 なお、美恵は、一三歳の時から頻拍発作を繰り返すようになり、当初は二、三年に一度の割合であったが、昭和五一年ころからは一年に一度の割合になり、昭和五四年ころには一年に二度の割合とやや頻回になり、その後、同年一〇月九日(同月一一日退院)、昭和五六年四月一九日(同日退院)及び昭和五九年一月一一日(翌一二日退院)の三回にわたって、頻拍発作が収まらないために国立浜田病院に入院した。もっとも、美恵の症状はそれほど重篤なものでなく、その都度投薬によって消失しており、心電図検査、超音波検査等の結果によっても器質的な心疾患は認められなかったが、発作が一日以上続くと動悸に引き続き嘔気、嘔吐が出現してくる状態であった。美恵は、国立浜田病院において、アミサリン、リスモダン(ジソピラミド製の抗不整脈剤)、ワソラン(虚血性心疾患治療剤)等の投与を受けたが、右各薬剤によって特に血圧低下や嘔吐等の副作用を生じることはなかった。なお、同病院における美恵の病名については、診療録上、発作性心室性頻拍とするもの、発作性上室性(心房性)頻拍とするもの、単に発作性頻拍とするものの三種類の記載がみられる。
三 請求原因3(美恵の死因)について検討する。
1 東京大学医学部講師(内科医師・心臓病学、特に不整脈を専門とする)である鑑定人井上博の鑑定結果(以下「井上鑑定」という)は美恵の病名を特発性心室性頻拍(右脚ブロック+左軸偏位型)としており、この点については、日本医科大学教授(内科医師・循環器内科を専門とする)である証人早川弘一も同意見であると証言している上、これらは心電図の解析結果とも一致しているから、美恵の病名は特発性心室性頻拍とみるのが相当である。ところで、特発性心室性頻拍とは、心室性頻拍のうち器質的心疾患を有しないものをいい、これについては、症状は軽く、生命の予後も良好とされている(甲二五、二六)。
2 次に、証拠(甲一二ないし一五、乙七、一〇ないし一二、証人井上博、同早川弘一、被告本人(第一、二回)、鑑定結果)によれば、次のとおりの事実が認められる。
(一) 井上鑑定は、美恵の死因を次のように分析している。
(1) 美恵は、嘔吐物を誤飲し、窒息して心停止を起こし、循環が再開されるまでに時間がかかったために意識障害を残したと考える。これは、土谷総合病院でのCT検査で脳の器質的な病変の存在が否定されていることにも合致するものである。
(2) 嘔吐の原因は血圧低下にあり、血圧低下をもたらしたものとしては、追加投与されたノルペースが疑わしい。ノルペース投与直後は、血圧は一二〇/七〇であり嘔気もなかったが、これはノルペースが吸収されていないためであって、投与後約四〇分を経てノルペースの血中濃度が次第に高まってきて、ノルペースの単独作用(過敏反応を含む)あるいはアミサリンとの相乗効果により血圧が低下し、嘔吐を惹起した可能性がある。
(二) これに対し、早川医師は次のとおりの反論を述べている(もっとも、同医師は、当初、血圧モニターの結果によれば嘔吐直前に血圧の低下が認められない以上、血圧低下が嘔吐の原因ではあり得ないとの意見書を提出していたが、実際に血圧モニターはなされていなかったことが判明したため、証言においては右見解は撤回した)。
(1) ノルペース投与から嘔吐までの時間は約四〇分に過ぎず、美恵が食後で薬剤の吸収が遅い状態であることやホリゾンの静脈注射によって胃腸の機能が低下していることを考慮すれば、ノルペースの血中濃度はさほど高くなかったはずである。
(2) 美恵は、国立浜田病院でもノルペースと同じジソピラミド製剤であるリスモダンを処方されており、頻拍継続中にそれを服用しているが、それによっても血圧低下・嘔吐等の副作用は発現していない。
(3) アミサリンによる副作用はなく、ノルペース投与までの時間経過によりアミサリンの効果はほとんどなくなっているから、ノルペースとアミサリンとの相乗効果は無視できる。
(4) したがって、ノルペースの単独作用又はアミサリンとの相乗作用によって美恵の血圧低下・嘔吐を惹起した可能性は低いと考えられる。
結局、美恵の嘔吐の原因は不明といわざるを得ない。
(三) また、被告も、鑑定結果に対して早川医師と同様の反論を述べるとともに、外来初診時には血行動態の異常がなく、看護婦による観察でも異常がなかったのに、突然の嘔吐を来して容態が急変したのは、不整脈の致命的合併症の一つである突然死が発生して嘔吐や全身痙攣等を惹起したものと思われるとの意見を述べている。
(四) ノルペースは抗不整脈剤であるジソピラミドを含有する薬剤であり、ノルペース五〇ミリグラム一カプセル中にジソピラミド五〇ミリグラムが含有されている。ジソピラミドの副作用としては、循環器において、まれに血圧下降が現れることがある。消化器においても、ときに嘔気が現れることがある。ジソピラミドを健常人に一回一〇〇ミリグラム経口投与した場合、腸管から速やかに吸収されて約三〇分後には血中に発現し、二ないし四時間で最高血中濃度に到達する。
(五) アミサリンは塩酸プロカインアミドを含有する注射液であり、アミサリン一アンプル(一ミリリットル)中に塩酸プロカインアミド一〇〇ミリグラムが含有されている。塩酸プロカインアミドの副作用としては、循環器において、まれに血圧降下を起こすことがあり、消化器においても嘔吐の症状が現れることがある。心室性期外収縮を頻発する患者六例に同剤五〇〇ミリグラムを静脈内投与したところ、血中濃度は投与直後に最高値となり、半減期は0.13ないし2.7時間であった。
(六) ホリゾンは、静穏作用、自律神経安定化作用、抗痙攣作用、筋弛緩作用を有するマイナートランキライザーのジアゼパムの製剤であり、ホリゾン注射液一〇ミリグラム(二ミリリットル)中にジアゼパム一〇ミリグラムが含有されている。ジアゼパムの副作用としては、循環器において、ときに血圧低下が現れることがあり、消化器においても、ときに嘔吐の症状が現れることがある。
(七) 突然死とは、WHO(世界保健機構)の定義によれば「瞬間死または発症して二四時間以内に死亡するもの」であり、厚生省循環器病研究報告の定義によれば、「内因性で、発症して二四時間以内に死亡するもの」とされている。突然死の原因としては、心・血管系疾患、脳血管系疾患、青壮年急死症候群、呼吸器疾患、消化器疾患等が挙げられる。突然死の中で心臓突然死というのは約五〇パーセントであり、心電図をとっている最中に突然死を起こした患者の場合、大多数が心室性頻拍性不整脈によって死亡している。
3 そこで検討するのに、前記認定の診療経過及び井上鑑定の結果からすれば、美恵の死因が嘔吐物の誤飲に伴う窒息による脳障害であることは明らかというべきである。そして、右嘔吐の原因については、美恵が、頻拍発作を発症して入院し、いずれも副作用として血圧低下や嘔気の生ずる可能性のある複数の薬剤の投与を受けた後、ほどなく嘔吐していることからすれば、これらの薬剤の単独ないし相乗的な副作用の発現として血圧低下を起こし、嘔吐に至ったものであるとする井上鑑定の推論は十分に説得的であり、合理的というべきであるから、美恵の嘔吐の原因がノルペースの副作用(又はアミサリンとの相乗作用)によるとの具体的可能性は、特段の反証のない限り、肯定されるべきである。
前記認定事実からすれば、アミサリンの投与からノルペースの投与までの間は約二時間、ノルペース投与から嘔吐までは約四〇分であるから、ノルペースの最高血中濃度到達時間やアミサリンの半減期からすれば、ノルペースの単独作用についてはやや発現が早過ぎる感がある上、既にアミサリンの効果が残存していない可能性のあることも否定できない。しかしながら、ノルペースの血中濃度に関するデータは健常人のそれであるから、既に頻拍発作を起こしている美恵について同様に考えることはできないし、その場合も三〇分もあれば血中に発現するというのである上、この点について、井上医師は、もともと心室性頻拍で血圧が下がっていること、抗不整脈剤は心拍数が多いときほど効果が強く現れるから、血中濃度が高濃度でなくとも副作用は起こり得ること、ノルペースは四〇分ないし一時間で血中濃度は十分なところまで上がっていくこと、アミサリンの効果が非常に低くなっているとしても、薬剤の相乗作用については不明な点が多く、ノルペースの作用を強めた可能性は否定できないこと、以上の点をもって前記の疑問に対する回答とする旨の証言をしているのであって、右各薬剤の血中濃度の多寡によって副作用の発現の可能性を否定することは相当でないというべきである。
また、美恵がノルペースと同じジソピラミド製剤の投与を以前に受けているのに副作用がなかったことからすれば、嘔吐の原因がノルペースの副作用でないとの疑いを入れる余地がないわけではない。しかしながら、証拠(乙三、証人井上博)によれば、国立浜田病院における治療の過程で美恵がリスモダン(ジソピラミド製剤)の処方を受けたのは、ほとんどが頻拍発作の予防を目的とするものであり、それを美恵が自己の判断で飲んだものであること、また、昭和五六年四月一九日には、頻拍発作で入院中にリスモダンを投与されているが、それは、同日午前一時四五分に入院し、アミサリンを投与された後、午前二時にホリゾンの投与を終えてしばらく経過観察をした後、午前八時五分になって投与されたものであること、同年七月一六日は、午前二時四〇分ころから心悸亢進を生じ、リスモダンを服用するも消失せず、国立浜田病院を受診し、アミサリンの投与を受けている(ただし、時刻は不明である)ものであることが認められるのであって、本件における美恵に対するノルペースの投薬状況とは異なっているのであるから、国立浜田病院の治療の際に副作用が発現しなかったことから、今回もそれがあり得ないはずであるとまではいい難い。
本件では、薬剤投与と症状発現の時期が接着しており、しかも、その因果関係についての医学的基礎付けがなされているのであるから、それが、薬剤の投与以外の原因で発現したものであるとの証明のない限り、薬剤投与が嘔吐の原因となった可能性を肯定するのが経験則に合致するものというべきである。この点については、早川医師も美恵の嘔吐について、薬剤による副作用でない他の積極的な原因を挙げることはできていないのである(早川医師は、当初、血圧モニターが不断になされているとの誤った前提に基づいて、美恵に血圧低下がなかったことを根拠に井上鑑定の結論を排除していたのであって、この判断が早川医師の証言に影響を与えている可能性も否定できないであろう)。なお、被告は、美恵の嘔吐は頻拍発作の合併症である突然死的な心停止によって惹起されたものであると主張し、乙第七号証及び被告本人尋問の結果中にはそれに沿う部分がある。しかしながら、心室性頻拍によって突然死をおこす抽象的可能性自体は否定されないものの、美恵の場合について、この可能性が現実化したことについては井上医師及び早川医師ともに否定的であり、このことに、美恵には器質的な心疾患がなかったこと、速水医院への搬入時には血行動態は良好であったこと、頻拍発作から嘔吐まで約三時間しか経過していないこと等、前記認定の診療経過からすれば、美恵の心室性頻拍によって突然死的な心停止が生じたものとは認められない。確かに、美恵の頻拍発作は年々増悪しており、そのために副作用による血圧低下が促進された可能性はあるかもしれないが、それを超えて、前記認定の診療経過の中で頻拍発作のみによって美恵の心停止が突然発生したとするのは、偶然といえば余りにも不自然であって、美恵の嘔吐の原因についての前記認定を覆すに足りるものではない。
四 請求原因4(被告の責任)について検討する。
1 同(一)(診療契約)は当事者間に争いがない。
2 証拠(甲四ないし八、九の1ないし6、一〇、一二ないし一五、二一ないし二九)によれば、次のとおりの事実が認められる。
(一) 発作性頻拍は、早い頻度の異所性心拍が連続して起こるものであり、突然発症し、突然停止する。持続時間は数秒で停止するものから、何らかの処置を行わなければ停止しないものまでさまざまである。異所性興奮が起こる場所により、心房性と心室性に分類され、心房性頻拍は器質的疾患がない症例でもしばしばみられ、一般に症状は軽い。心室性頻拍は器質的心疾患の一つの症候として認められることが多く、重篤で生命に関係することがあり、直ちに治療を必要とするものが多い。もっとも、特発性心室性頻拍は器質的心疾患がなくとも発症するものであり、症状も軽く、生命の予後も良好である。なお、心室性頻拍の心拍数は、一般に毎分一四〇ないし二五〇回であり、多くは毎分一八〇回以下である。
(二) 心室性頻拍の治療方法ないし治療上の注意事項として、医学書には次のような記載がある。
(1) クラスⅠの抗不整脈剤、例えば、リドカイン(五〇ないし一〇〇ミリグラム)、アミサリン(二〇〇ないし一〇〇〇ミリグラム)、リスモダン(五〇ないし一〇〇ミリグラム)等の静脈注射を行う。なお、ほとんどすべての抗不整脈剤は心筋収縮力を抑制する。心室性頻拍の原疾患の重症度により既に心不全傾向があったり、心室性頻拍が長時間持続して心機能低下を来した場合は特に注意を要する。クラスⅠの抗不整脈剤の静脈注射で、末梢血管の拡張により低血圧・ショックが起こることがある。
(2) 心室性頻拍の場合、しばしば血行動態が不安定で抗不整脈剤の投与でさらに重篤になることが多い。最初から血圧が低い例や、抗不整脈剤で血行動態が悪化する例では、電気的除細動(電気ショック)が行われる。
(3) 心室性頻拍では、血行動態の異常が軽度であっても、抗不整脈剤治療に時間をかけ過ぎない。
(4) 特発性心室性頻拍(右脚ブロック+左軸偏位型)は心室ペーシング(高頻度刺激)による誘発・停止が可能であり、ベラパミル(ワソラン)が奏功する。
(5) 心房性と心室性の鑑別が困難な場合、心室性とみなして対処する。
(三) アミサリンの効能書には、発作性心室性頻拍に効果があるとされ、使用上の注意として、脚ブロックのある患者に投与しないこととされ、副作用として、心筋収縮力を低下させ、心不全・血圧降下を起こすことがあるとの記載がある。
(四) ノルペースの効能書には、期外収縮、発作性心房性頻拍、心房細動の状態で、他の抗不整脈剤が使用できないか、または無効の場合に効果があるとされ、使用上の注意として、頻回に患者の状態を観察し、脈拍、血圧、心電図等の検査を定期的に行うこと、脚ブロックのある患者には慎重に投与することとされ、副作用としてまれに血圧降下の症状が現れることがあるとの記載がある。医薬品辞典には、ノルペースに含有されているジソピラミドについて、緊急治療を有する発作性心室性頻拍に適応があるとの記載がある。
3 そこで、被告に診療契約上の不完全履行ないし過失があったか否かについて検討する。
(一) 診断上の過誤について
被告は、美恵の疾病を発作性頻脈と診断し、診療録にその旨記載しているところ、発作性頻脈は、発作的に出現する頻脈発作の総称であって、これは心室性頻拍を含む表現である(乙一二)から、診療録上は、被告の診断に誤りは存しない。もっとも、被告は、美恵の頻拍が心房性のものか心室性のものかについては、同人の意識及び血行動態からみて、心房性のものである可能性が高いと判断していたのであるが、被告は、抗不整脈剤について、心室性頻拍を停止するのに有効なアミサリン及びノルペースを選択して投与するなど、美恵に対する治療方針の決定に際しては、同人の疾病が心室性頻拍である可能性も考慮に入れ、これにも対処しうるような治療をしていることが認められるから、この点に関し、被告に不適切な点はないというべきである(これについては井上医師、早川医師とも同意見である)。
(二) 治療内容上の過誤
(1) まず、被告が、美恵の頻拍発作に対し、アミサリンの静脈注射及びノルペースの経口投与を選択したことについては、右各薬剤がいずれも心室性の発作性頻拍に効能を有するものであることは前記のとおりであるから、この点について被告に不適切な点はないというべきである(井上医師、早川医師ともに同意見である)。なお、原告らは、ノルペースの経口投与は、患者の状態を観察しながら投与量を調節できないので危険性が高く、美恵の疾病に対する治療方法として適切でない旨主張するが、発作性心室性頻拍に同剤の適応があり、効能書の記載どおり他の抗不整脈剤と併用により投与がなされているのであるから、ノルペースの投与に問題はなかったというべきであるし、薬剤選択に誤りがない以上、その投与方法が経口投与であることを特に問題視することも適当でないというべきである(なお、甲第一二号証によれば、同剤はカプセルであり、静脈注射用製剤は市販されていないし、他のジソピラミド製剤も大半はカプセルである)。ちなみに、国立浜田病院でのリスモダン(ジソピラミド製剤)の投与も予防用に美恵に渡され、同人が自己の判断で経口投与していたと認められる。また、原告らは、美恵の病名は「右脚ブロック+左軸偏位型」の心室性頻拍であったから、特効薬であるワソランを投与すべきであったと主張するが、井上鑑定によれば、「右脚ブロック+左軸偏位型」の心室性頻拍にワソランが有効であるとの事実は、本件当時、不整脈を専門とする医師の間では認識されていたものの、いまだ一般的ではなかったことが認められるから、不整脈の専門医でない被告が、初診の救急患者である美恵に対し、同剤を投与しなかった点をもって、被告の治療方法が不適切であったということはできない(井上鑑定も同意見である)。
(2) 次に、原告らは、心室性頻拍の治療の原則は頻拍の停止にあるから、アミサリンの投与で頻拍発作が停止しなかった時点で治療方針を再考する必要があり、アミサリンの追加投与ないし他の抗不整脈剤の静脈内投与、あるいは電気ショックの施行により頻拍発作を停止させるべきであったと主張し、井上鑑定もそれに沿う意見を述べている。しかしながら、当時、美恵の意識は清明であり、血圧も平常値で、アミサリンの投与により、心拍数は徐々に減少しつつあったのであって、患者の血行動態が悪くて緊急処置を必要とする場合でもなく、抗不整脈剤の投与が無効で、かえって血行動態を悪化させたものでもないから、電気ショック療法の適応があったとすることはできない。また、早川証言によれば、アミサリン二〇〇ミリグラムを投与後に頻拍発作が止まらない場合に、さらにアミサリンを追加投与するか、電気的治療法を採るか、しばらく患者の様子をみて他の抗不整脈剤を投与するかは医学的裁量の問題であると認められ、本件においては、アミサリンの投与で美恵の頻拍発作は一時的に軽快していたのであるから、その後、直ちにアミサリンの追加投与や他の抗不整脈剤の投与を行わず、美恵の頻拍感の訴えに対しノルペースを投与した被告の処置に過誤があるとすることはできない。早川医師は、被告が循環器の専門医でないことを考えれば投薬に不適切な点はないとの意見を述べており(乙一二)、この点については早川医師の見解に従うのが相当と考える。
(三) 経過観察上の過誤について
(1) この点についての井上鑑定の意見は、ほぼ原告の主張に沿うものである。すなわち、一般論として、患者の血行動態が入院後も引き続き安定しているか否かについて頻回に観察することが必要であり、具体的には、頻拍発作中は心電図モニター、血圧モニターを装着しておくべきであり、特に、ノルペース投与後は、同剤の心機能抑制作用にかんがみ、血圧モニターによる監視が望ましかったが、被告は、ノルペース投与後の副作用に対する監視が十分でなかったというのである。
(2) しかしながら、ノルペースないしアミサリンによる血圧の低下は「まれに」起こるとされているのみであるから、そのような低い確率(厚生省の通達により、効能書の記載上0.1パーセント未満の確率を「まれに」と表示すべきものとされていることは公知の事実である)で生ずる副作用(しかも、甲第一四号証によれば、同剤の副作用は血圧低下に限られるものではなく、多種多様であることが認められる)につき、常に医師がその発生を予見し、それに備えるべく万全の体制を取るべき法律上の義務があるとまではなし難いというべきである。しかも、ノルペース単独ないしアミサリンとの相乗作用によって血圧の急激な低下が発症したとの臨床症例が報告されているものでもないからなおさらである(早川医師は、経口剤で血圧降下の副作用を経験したことはないと証言する。また、アミサリンやノルペースが頻拍発作に対して一般的に使用される薬剤であることは、井上医師や早川医師も認めるところであり、国立浜田病院でもアミサリンやリスモダンが日常的に使用されていることが窺えるが、美恵に副作用があった様子はない)。また、美恵が、速水医院に搬入された当時、同人の血圧は一三三/七九と血行動態の悪化所見は認められず、心拍数も毎分一五五回と心室性頻拍としては比較的少ない方であり、意識は清明で、問診に対してもしっかりと受け答えをしている上、アミサリンの投与によって症状は軽快し、ノルペースを投与した後も、歩いて排尿に行ったり、問診にも受け答えをし、胸痛、嘔気を訴えることもなく、血圧も正常で心拍数もさらに減少してきているのであって、これらの事情からすれば、美恵の病態は、短時間内に血行動態が急激に悪化するような重篤なものとは到底窺われず、被告が副作用としての血圧低下を予見できなかったこともやむを得ないものというべきである。もっとも、美恵は、ノルペースの投与後、看護婦の問いかけに対してうなずくのみの状態になっていたが、看護婦である証人西岡千壽の証言によれば、美恵のこのような状態はその前から持続していたことが認められるのであって、しかも、美恵は看護婦の質問を理解して回答しており、同時刻に施行された血圧測定の結果に異常が見られず、嘔気も認められなかったことや、わずか五分前にはトイレまで歩行しうる状態であったことに照らせば、右のような状態が美恵の病状の急激な悪化を示すものでないことは明らかというべきである(マイナートランキライザーであるホリゾンの効果によるものとみるのが相当であろう。)
(3) したがって、被告には、ノルペースの投与により副作用としての急激な血圧下降が発現することについて予見可能性がなかったというべきであり、また、美恵の発作性頻拍の病態自体も急激に悪化する重篤なものではなかったのであり、これに被告が地方の開業医であり、頻拍発作の専門家でもなかったことを考え併せると、被告が、美恵の血圧、心電図のモニターをしなかったこと、看護婦の付添いを解除したこと、気道確保をしなかったこと等をもって経過観察上の過誤とすることはできないものというべきである。
(4) なお、被告は、美恵のいる回復室とさほど離れていない場所で執務しており、容態の急変を聞きつけて直ちに美恵の許に行き、必要な救命措置を採っている(この措置が適切であったことは井上鑑定も認めている)にもかかわらず、美恵の容態を回復させることができなかったことからすれば、同人の嘔吐、誤飲は、かなり急激に生じたものと考えられるから、仮に、被告による美恵の経過観察が万全なものであったとしても、同人の嘔吐、誤飲を防ぎ得たかどうかは疑わしく、この点でも被告に責任を負わすことはできないというべきである(井上鑑定は、看護婦が付き添い、心電図モニター及び血圧モニターを継続的に観察すれば、美恵の事故は防ぎ得たかもしれないとするが、証人早川弘一及び同医師の意見書(乙一二)は、看護婦を付き添わせても誤飲を防げたか疑わしいとしており、前者をもって美恵の事故を避け得たと認めることはできない)。
4 したがって、被告には、美恵の治療につき診療契約上の債務不履行はなく、また、医師として当然要求されるべき注意義務に違反した過失も存しない(経過観察については因果関係もない)というべきである。
五 よって、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小林正明 裁判官喜多村勝德 裁判官角井俊文)
別紙<省略>